クリティーク、コラム、エッセイ、インタヴュー、手を変え品を変えて、欲しいコメントを出し続ける、カルチャー・メッセージの展示場。コムコム.comが変わります。
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生くる言の波を増幅する音の波。
古川日出男×(虹釜太郎+鈴木康文)を体験する。
2008年1月18日
KIASMA Vol.19 @渋谷O-nest
古川日出男×(虹釜太郎+鈴木康文)
評=吉田アミ
photo:Wataru Umeda
言の葉ではなく、言の波のよう。
はじめて古川日出男の朗読パフォーマンスを体験した瞬時。そう思った。朗読? はたしてそれだけと言い切れるのか。口舌パフォーマンス? 違う。流転する言の波。だから、ロックンロールだ。それでいいと思っていたんだ。
2008年1月18日。渋谷O-nest。この日の古川日出男の朗読パフォーマンスは一夜限りのスペシャルとして、音楽家の虹釜太郎、鈴木康文とのコラボレーションライブとなった。二人は『ハル、ハル、ハル』(河出書房新社)刊行のときに、記念して作られたリミックスアルバムを担当し、その楽曲の中で、古川日出男の朗読は二人の手によって響き、拡声され、裁断され、変形され、前後左右を縦横無尽に移動し、再構成され、音楽になり、解け合っていった。剥奪された意味の中で、朗読はヴォーカルだった。読者に読ませるだけでは飽き足らない古川日出男が導き出した、小説とは違う言葉のかたち。それが今回のパフォーマンスの礎になっているのは明らかだった。コラボレーションの名は古川日出男×(虹釜太郎+鈴木康文)。
第一声。間髪入れることなく、音。
観客のざわめきは一瞬にして潜める。
圧倒的だった。
その存在感。
古川日出男の声に闘うように音が散乱する時、ほとんど奇跡のようにそこは古川日出男の物語の内であった。古川日出男×(虹釜太郎+鈴木康文)の独壇場。私たちは固唾を呑んでステージを注視せずには居られない。ただ、耳を、眼を拓き、囂々と流れ込む音に声に叫びに意味に翻弄されていれば良かった。それが、とても心地好かったのだ。抗うな。と、音が飛び込んでくる。ざらついた、まとわりつくようなノイズ、異国のループ、寸断される電子音…それらが次第に融合するでもなく、霧散するでもなく、めいめいに、ほうぼうに、実に自由に。自在に。空間を占拠した。(・・・)
未知なるものへの跳躍
東京国際芸術祭2008
『スリー・スペルズ』
振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ、ダミアン・ジャレ
2008年3月21日(金)- 3月23日(日)
にしすがも創造舎特設劇場
(c)Arnold GROESCHEL
評=三橋 輝
ダンスに何を求めるか。何とも身勝手な物言いから書き始めてしまったが、先日のダミアン・ジャレ+シェルカゥイのダンスを見て以来ずっとこの問いにつきまとわれていた。果たしてこの問いにはどのような答えが適切なのだろうか? 投げかけられた問いの向かう先が、発信者自身であるのだから、その答えを安易に他者から受け取ることはできないだろう。それに加えて、そもそもこれは「問い」の形を装ってはいるものの、十全に「問い」の形式を成していない。注視するまでもなく、この言葉は、結局のところただ一人の個人的な欲望に関わる話に過ぎないのだから。
例えば東京のストリートの片隅からパリのガルニエまで。世界中に在るダンスの数だけ、とりあえずのその答えはあるだろう。つまりはダンサーたちの数だけその欲望の答えはあるだろうし、逆の側、「観客たち」の方を見やれば、その視線の数だけ答えはあるだろう。要は、ダンスが世界に在る限り、その答えは幾度も幾度も繰り返し生成されていく。欲望の答えとはせいぜいがそのようなものだ。
だが、時としてこうした欲望への返答は、投げかけられた欲望の対象を通り越して一つの同時代的なるものへのパースペクティヴを与えてくれることがある。その為には、まずは三つのダンスを振り返ってみなければならない。
配布されたプログラムにはアルトーの言葉がエピグラフとして掲げられていた。「踊ること、それは神話を受け入れること、したがって神話を現実に換えることである。」この言葉が何を意味するのか? それは『スリー・スペルズ』という題の下に行われた三つのダンスが、アルトーの一義的な言葉通り「神話なるもの」を回収可能な物語へと変換=メタモルフォーズさせるというテーマに沿っていたということが言える。(…)
医学生が『HEAVEN』 の編集者になる
評=榎本了壱
精神科医として膨大な著作を発信し続ける香山リカさんが、1980年代の青春グラフィティとでも呼ぶべき、時代史と半自叙伝的な要素で織り上げた、ほろほろと心に届く追想録だ。(…)
ALIVE ART MATSURI Vol.3
「伊東 篤宏 SOLO EXHIBITION + Live Performance / SOUND & OBJECTS」
2008/2/17(日)
三上寛 + 伊東篤宏+伊東Solo live
写真:Ryu Itsuki
評=藤沼 亮
08年2月17日、横浜BankArt。よく響くコンクリートのキューブ、あそこのリバーブは一体何秒あっただろう。あのとき鳴っていた音を名指す言葉を未だ持ち得ずに、キーを叩く手が論理の先を走る。このテクストを走らせる、未だ名を拒みながらわたしの別の声を引きずり出す、三上寛と伊東篤宏の共演を巡って。
2月9日に新宿の映画館でジムオルークと大友良英と勝井佑二の共演を聴く機会があった。いい演奏だったが、一抹の寂しさを覚えたのも事実だ。明確に調性感のあるマイナーのアルペジオを弾き始めたジムに勝井のヴァイオリンと大友のE-bow(たぶん)が重なったときの響きは端的に音響として美しかった。「調和/協和」の相のもとで為された演奏それ自体の価値を全否定しようというつもりはない。しかし、演奏において共に在ろうとすることの別のかたち、決して赦しあわないものが共に在ろうとすること、そのような演奏を問うてみたい。「共に在る」ことがとても難しい時代に、であればこそ、共に在ることを問い抜くことが生の喫緊の課題として要請される。そして、このとき私が念頭においている「演奏」が高柳昌行と阿部薫のデュオであることをまず差し出さねば、三上と伊東の共演が投げかけた問いを、明らかにはできまい。(…)
ウイリアム・フォーサイス×ティエリー・ドゥ・メイ
DVD+付録ブック
『One Flat Thing, reproduced』
2008年2月、振付家 ウィリアム・フォーサイスと、映像 ティエリー・ドゥ・メイのコラボレートによる注目のダンスDVD “One Flat Thing, reproduced”(2006年製作、フランス)が、新たに 日本オリジナル版 【DVD+付録ブック】として発売されました。
評=三橋 輝
フォーサイス・カンパニー初の本格的なヴィデオ・ダンス作品である。2006年、フランスMK2から発売されたものにブックレットをつけた日本企画盤だ。振り付けはフォーサイス、監督はRosasの一連のヴィデオ・ダンスを担当してきたティエリー・ドゥ・メイ。『one flat thing, reproduced』と題されたカンパニーによる26分のダンスと監督ティエリー・ドゥ・メイが聞き手を務めるフォーサイスの45分のインタヴューが収められている。
このダンス、実は2000年以来様々なヴァージョンで発表されているフォーサイス・カンパニーの重要なレパートリーの一つだ。しかし、ここではフォーサイスの側からではなく、この「ヴィデオ・ダンス」というジャンル、そしてそのパイオニアの一人でもあるティエリー・ドゥ・メイの側から言葉を発してみよう。(…)
ニブロール10周年記念の新作『ロミオorジュリエット』は
ダンスヒストリーの1行にその奇跡をしっかりと刻み付けた
at 世田谷パブリックシアター(2008年1月18-20日)
全て写真:飯田研紀
評=榎本了壱
この作品の合い言葉は「No,No Border」だという。ボーダレス(境目のない)という不分明、不明瞭な世界に生きて、でも、「キミとボクの間には超えられない明確な線がある」と断言する。あるいは懐かしの青春ラブソング「No,No Boy」のオマージュか。それにしてもシェークスピアに始まり、古典バレエの人気定番でもある「ロミジュリ」をやるというのは、さすが10年目のニブロール。ダンスヒストリーにしっかりと刻み付ける決意の新作と受け取った。おかしなことに、周囲のダンス関係者が「トラムの方にいっちゃったわ」と笑い合っていたが、これも10年目のニブロール、しっかりとセタパブの大舞台での大興行、しかも立ち見の出る盛況さだ。これだけでも、ニブロールおよび、矢内原美邦の獲得した実力と名声は確固たるものになった。(…)
『あるかなしかの町』
エマニュエル・ボーヴ著/昼間賢訳(白水社)
1920年代、パリ郊外の町ベコン=レ=ブリュイエール。その少し変わった名で人々を笑わせる材料でもあった町を題材に、ボーヴは何気ない言葉を紡いでいく。そこは都会生活の荒々しさと、田舎暮らしの気安さの間で、特徴の少ない、あるかなしかの町である。通りには同じ大きさ形の窓が並び、丘の上にいるのに谷間にいるかのような錯覚を覚える家々を歩き……そして「孤独」の花言葉を持つブリュイエールの花は、その町の名を冠する花であるには、あまりにも少なすぎる……
矢内原美邦プロジェクト 青い鳥
2007年9月24日(月祝)吉祥寺シアター
評=榎本了壱
「青い鳥」は、また新しい展開を見せてとても面白かった。
言葉もダンスも早すぎて、ほとんど3倍速くらいだったから、
可読性が悪く、動体視力の悪いやつらはどんどん置いてってしまうという、
すさまじい超高度情報化社会の先端アートを見ている感覚。
室伏鴻×黒田育世 ミミ
2007年9月15日(土)赤坂レッドシアター
評=榎本了壱
ゾラの『ナナ』のような、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』のような、
そんな小説を思い出させた室伏鴻と黒田育世の『ミミ』。
Experimental Body シリーズといいながら、男女のデュオは
どうしてこう、男と女の関係を読み解く作品に見えてしまうのか。
ダンスがフィジカルな表現だけに、それがいっそう生々しく、
露骨に見えてしまうので、実験的身体など凌駕してしまうのだ。
約束の船
この極めてシリアスで、スリリングな事件に立ち会おうと、
100名近い立ち見の客がでるなか、8月31日午後7時30分、
「約束の舟」はゆるゆると動き出した。
於:シアタートラ
50年に1度のデュオダンス「約束の舟」は、しずかに、おだやかに、互いを確かめるように、いたわるように、進んでいった——
黒沢美香と木佐貫邦子、二人は20代前半の4年間、ともに庄司裕のもとでダンスを学んだという過去があったとしても、ダンスの現在を知る人であれば、何であの二人がデュオダンスをと、首を傾げるくらい、二人のダンスはいまや乖離している。どう乖離しているかといえば、木佐貫は先端的な要素を果敢に開拓しながらも、あくまでダンスムーブメントを重視した、強靭にしてエレガントなダンスオーソドックスのなかにいる。黒沢は、すでにダンステクニックは重視せず、自分のなかに記憶されている微細で異形な身体的出来事を大切につないでいく、ヒューマニティに重心を置く。と、私は観察している。
フォトジャーナリスト
高木佑輔

2006年 コンゴ民主共和国
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コンゴ民主共和国:忘却の彼方
コンゴ民主共和国では、第二次世界大戦以降最も犠牲者が多い内戦が今なお続いている。
1997年に始まった内戦の犠牲者の数は400万人とも言われている。
しかしながら、その実態は闇に包まれている。
この忘却の彼方では非人道的な光景が広がっていた。
そのような報道されない現実に光を当て、彼ら、彼女らの過去・現在・未来を、
見た人が想像してくれれば、と思う。
高木佑輔
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☆全国公募写真展 2007年 視点 第32回展
(東京都美術館2階第3展示室にて開催中)に
高木佑輔の『コンゴ内戦』(2006年/モノクロ/1枚)が入選!
6月10日(日)まで展示されています。
指輪ホテル『CANDIES』
評=石井達朗
この一見、蠱惑的で、エロティックで、イノセントで、可愛さを標榜しているような
―あるいは、以上の形容詞がすべてウソであるかもしれない―
不可解な女の子たちの集団。
数年前、へたすぎて見ていられないと思った時もあるが、そんな時にも、
「うまい/へた」などという、陳腐な基準で彼女らを見ている自分のあざとさを
自問自答したくなるような何かが、彼女らの作品にあった。
であるから、「へた」でないときには、今の日本の舞踊とか演劇が同じような方向を向いているのではないかと思わせるほど、彼女らの活動がユニークに映る。
評=岡田亜矢子
非常に軽妙。
濃厚なイメージの毛皮族の印象を覆す、
むしろ清々しささえ漂う舞台。
---毛皮族のアングラ経験劇場 コーヒー&シガレッツ的な軽演劇 内
Aプログラム→『元始、女は太陽だったような・・』に行ってまいりました。
見ごたえのある舞台だった。
公演タイトル、役名ともにおふざけの香りがぷんぷんしていて、
更に、”渾身の本格ヒステリー”(本来はミステリーであろう。。。)という舞台紹介文。
どんなドタバタの捜査が行われるのかと、
事前になんとなしにしていた予想は完全にひっくり返されたのでした。。。
評=石井達朗
日本のコンテンポラリーダンスに小さな風穴を開けて欲しい。
種子田郷(音楽家)×神村恵(ダンサー)
8月に、印象的な舞台が二つあった。ひとつは神村恵のダンスと種子田郷のサウンドによる『うろ』(8月14日、麻布die pratze),もうひとつは大橋可也振付けの『明晰さは目の前の一点に過ぎない』(8月27日、吉祥寺シアター)。
神村は大橋作品にも一ダンサーとして出演している。『うろ』は、神楽坂と麻布のdie pratzeで毎夏開催されている「批評家推薦シリーズ」の一環であり、実を言えばこれは私の推薦である(去年の同じシリーズで私が推薦したのが大橋可也だった)。
というわけで、神村の『うろ』については、あれこれ述べる資格がないのかもしれないが、以下は推薦人兼観客としての感想である。
椿 昇=評
マサチューセッツ工科大学のラボリポートです。
まるでSF映画のセット。
この高級ジャンク屋のような、
スターウォーズのポンコツ宇宙船を地で行くような研究室はなんだ??。
椿 昇=評
アフリカリミックス
福岡からの最終便。赤坂のホテルにチェックインしたあとオープニングから流れたジェーン・アレキサンダーを追いかけた。残念ながら彼女はそのクラブからホテルに戻ったあとだったが、翌朝再会。「アフリカリミックス」の会場でどっさりの作品をめぐりながらポストコロニアルの奇妙な捻れを語り合う。写真を拒み、人前では極めてシャイな彼女が、よく喋り実に快活だ。いろいろな質問も矢継ぎ早に飛んでくる。
石井達朗 評
どういうわけか、この5月は、数日間にわたり開催されるダンス映像についての充実した特集が、2つもある。一つ目は「国際ダンス映像祭」と題され、六本木のP-Houseで5月1日から6日まで連日。二つ目は彩の国さいたま芸術劇場で5月12-14日と、19日―21日の6日間に開催される「Video Dance 2006」。

新井 幾美子 評
「ヤツらは真剣だ!―踊り続けること/自分であり続けることへの真摯な「選手宣誓」―」
はじめに言っておきたいのだが、そう、間違いなく確かにコンドルズは「ダンス・カンパンニー」なのだが、ダンス公演と思って観ない方がいい(かも知れない)。
その舞台はコントあり映像あり人形劇あり、もちろんダンスも(も、という所がポイントである)あり、幾つもの短い断片が、脈絡があったりなかったり、次々と間髪入れず繰り出される。
高井君貴 評
『写真における輝きとは?』
CMや雑誌の世界でまさに第一線で活躍している飯田かずなの、待望の写真集が刊行されている。しかし、経歴からいえば、コマーシャルフィルムや短編映画、雑誌やCDジャケットなども手がけるその手腕の広さからして、写真家という肩書きを超えて、まさに多才なアーティストと呼ぶにふさわしいといえよう。この写真家の名を知らない人でも、SMAPの草?剛扮するアジアのポップスター、チョ・ナンカンのジャケットなどでその作品を知る人も多いだろう。今回の写真集は、これまでにさまざまな媒体で公開された作品の集大成といえ、掲載されているそれぞれの発表時期や掲載媒体は異なるものの、一冊を通してみると、作者の一貫したアプローチが見て取れる。それは、本書の帯書きのコピーにあるように、一様に「みんな、キラキラ」しているということだ。
『詩的で、視的で、史的なモリムラ・ワールド』
美術家、アーティストという職業の人たちの中に、言葉、文章に関しても独特のリズム、語彙、表現スタイルを持たれている方たちがいる。その人たちのアート作品を鑑賞する機会を得られることも歓びだが、パンフレットの中のコメントやインタビュー、スピーチ、作品名のつけ方などを密かに楽しみにしている人がいる。森村泰昌さんがその一人だ。森村さんの文章や言葉は、高い論理性を備えながら、大阪人特有の絶妙な間のとり方、テーマの明快さ、比喩をたくみに使い、直球や変化球を投げ込んで、読者、観衆を魅了する。
石井達朗 評
昨年と今年は「日本におけるドイツ2005/2006」(つまりドイツ年)ということもあり、接する機会の少ないドイツのコンテンポラリーダンスがいくつか来日している。印象に残っているのは昨年11月、青山円形劇場で公演されたコンスタンツァ・マクラス振付けの『バック・トゥ・ザ・プレゼント』とトーマス・レーメンの『モノ・サブジェクツ』。
石井達朗 評
2006年3月11日から26日まで開催された今年のJADE。カンパニー マリー・シュイナールの『春の祭典』と『牧神の午後への前奏曲』はダンサーの衣装やツノのついた頭巾そのものが美術品といってもいい面白さだし、シュイナールならではの振付けも奇妙で最初から最後まで目が離せない。
椿昇(アーティスト)
2004年の秋、僕はヨルダン川西岸のラマラにいた。ほこりまみれのワーゲンを陽気にドライブするハナさんに案内されて、エルサレムの旧市街や、白茶けた岩の転がる丘陵地帯を縫うように走った。
榎本了壱 評
『ダルマサンガコロンダ、モンスターレース、そして・・・』
最初の“Clouds after Cranach”(Part1)は、ダルマサンガコロンダ状態のような、ドミノ倒しのような動きの連鎖と停止。バラバラバラ、ピッ!ピッ!ピッ!バラバラバラバラバラバラ、ピッ!といった具合の連続。誰かからか、あるいはわずかにずれた同時多発の起動によって、ことが起こっては、かなり短いスパンで終息していく。
榎本了壱 評
岡本真理子「プチサバイバル・ガーデン」
『自閉者のためのテリトリー論』
ホワイエのテーブル周りで、黒地に白いひまわり模様のノースリーブのワンピースに、ゴーグルをかけサボ(オランダの木靴)をはいた岡本が、呪術師のように、霊能者のように、立ち居振舞っている。オーディエンスは「なんこっちゃ」といった感じで近い位置から岡本の作業を観察しているが、結局なんだか分からないうちに岡本は、駆け込むように劇場ホールに入っていく。オーディエンスも後からドヤドヤ入場する。
榎本了壱 評
『クルミの実のような記憶の中のまりも羊羹は・・・』
舞台にはアジア風フォークアートな木製の寝台が2脚。暗転になって明かりが戻ると寝台に寝ているなんて当たり前過ぎるなと思っていたら、下手のドアから強い明かりが差し込んできて、スーパーのビニールの買い物袋をかぶった山田せつ子がフラフラ、人間アンドン状態で出てくる。(おお!)空間は一転山荘のようなイメージに。空虚なでも充実した孤独(?)、しなやかで乾いたソロがしばらく続く。
『誓って休暇を取ろうとしたのに、結局踊ったり奏でたりしてしまった!』
「コンドルズ」の楽しみ方は2つある。ひとつは非常にバカらしいチャーミングなコント。もうひとつが近藤良平のソロダンス。発汗ヒッシャキ情熱男子群舞はオマケ。でも、「グリコのオマケ」のようにあくまでも主たるオマケ。その近藤のソロ「誓いの休暇」だ。









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