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2008/04/30

<<批評>> TIF'08 『スリー・スペルズ』

未知なるものへの跳躍

東京国際芸術祭2008

『スリー・スペルズ』
振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ、ダミアン・ジャレ
2008年3月21日(金)- 3月23日(日)
にしすがも創造舎特設劇場

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(c)Arnold GROESCHEL

評=三橋 輝

 ダンスに何を求めるか。何とも身勝手な物言いから書き始めてしまったが、先日のダミアン・ジャレ+シェルカゥイのダンスを見て以来ずっとこの問いにつきまとわれていた。果たしてこの問いにはどのような答えが適切なのだろうか? 投げかけられた問いの向かう先が、発信者自身であるのだから、その答えを安易に他者から受け取ることはできないだろう。それに加えて、そもそもこれは「問い」の形を装ってはいるものの、十全に「問い」の形式を成していない。注視するまでもなく、この言葉は、結局のところただ一人の個人的な欲望に関わる話に過ぎないのだから。 
 例えば東京のストリートの片隅からパリのガルニエまで。世界中に在るダンスの数だけ、とりあえずのその答えはあるだろう。つまりはダンサーたちの数だけその欲望の答えはあるだろうし、逆の側、「観客たち」の方を見やれば、その視線の数だけ答えはあるだろう。要は、ダンスが世界に在る限り、その答えは幾度も幾度も繰り返し生成されていく。欲望の答えとはせいぜいがそのようなものだ。
 だが、時としてこうした欲望への返答は、投げかけられた欲望の対象を通り越して一つの同時代的なるものへのパースペクティヴを与えてくれることがある。その為には、まずは三つのダンスを振り返ってみなければならない。
 配布されたプログラムにはアルトーの言葉がエピグラフとして掲げられていた。「踊ること、それは神話を受け入れること、したがって神話を現実に換えることである。」この言葉が何を意味するのか? それは『スリー・スペルズ』という題の下に行われた三つのダンスが、アルトーの一義的な言葉通り「神話なるもの」を回収可能な物語へと変換=メタモルフォーズさせるというテーマに沿っていたということが言える。(…)

 まずは『毛皮のヴィーナス』。ファーのコートを纏ったアレクサンドラ・ジルベールによるソロは「スリー・スペルズ」と題されたこの夜のダンスの皮切りに相応しいものだった。コートを纏うことによって得体の知れない奇妙な生き物へと姿を換えたジルベールが、徐々にコートから抜け出していき――「脱皮」という表現はあまり適切ではないような気がするが――美しい黒いドレス姿の一人の女性へとメタモルフォーズする。呆気に捉えられている観客たちに向かって嘲笑的な笑い声を投げかけて舞台を去る。

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(c)Arnold GROESCHEL

 続いてはこれが世界初演となったジャレのソロ、『ヴェナリ』。ギリシャ神話のアクタイオーンの物語とバタイユのあの有名な『ラスコー』からインスパイアされたというこのダンスは、半裸のジャレがアクタイオーンさながら生から死、そして死から新たな生への移行という宿命づけられた苦しみを、人から鹿へのメタモルフォーゼという物語によって表現する。苦しみの呻き声は、鹿を模倣するかのような四つん這いの姿勢からの跳躍が反復されることによって、呼気と共にクレッシェンドされ、転生=メタモルフォーズの緊張感を増幅させる。

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(c)Arnold GROESCHEL

 そして『アレコ』ではジルベールとジャレによる愛と死の物語が語られる。プーシキンの『ジプシー』に着想を得たとされるこのダンスは、ほとんど無邪気にその物語をなぞってみせる。極めてヨーロッパ的なオリエンタリズムを導入し、時折ジルベールによる「歌」を差し込むことで、愛が強すぎる故に殺してしまい苦悩する青年の物語を実に分かりやすく表現する。

 さて、こうした最後まで三種のダンスを見通すと、「生」と「死」といったものが単なる形式のメタモルフォーズに過ぎない、という主題が見えてくる。だが、私はここに大きな違和感を感じずにはいられなかった。
 総論的に言えばダンスとはパフォーマティヴな生成言語である。目前で行われる細部まで錬成された肉体の行使によって、言語を漸進的に紡いでいく。そしてその「アクション」が、時に飛躍することで、その「言語」を文字通り「跳躍」させる。これがアルトー以降の舞台で求められていることの一つであり「驚異(ブルトン)」の発生源となるものだ。
 あらゆる世界の全ての舞台で行われるものは、人類がアルトーを歴史の中に持ってしまって以来、かつてソンタグが言ったように「アルトー以前/以後」であることを余儀無くされているはずであり、それに無自覚ではいられないはずだ。せいぜいのところ、この断絶線に、新たなスラッシュを刻みこめるのは、再びフランスとアイルランドの側から、サミュエル・ベケットしかいない。
 私たちが、少なくとも私が見たいのはアルトーがジャリ劇場で、そして後年のテクストの中で表出しようと試みていた「不透明な身体」に他ならないのであり、その意味での「神話」であり「踊ること」なはずだ。「驚異」を持ち得る「神話」。それは一面の美しさではなく、もっと不気味な、未知のものではないのだろうか? つまり、このようなシンタックスの整理された美しい一つの意味に回収されるような物語を見たいのではないのだ。そして、その「不透明な身体」に接近しようという意志を持った舞台だけが、新たな「驚異」を獲得するのだ。
 一時期の日本のダンス、とりわけ暗黒舞踏の系譜に連なるもの達がこの「驚異」へと最も接近したことには論を持つまでもないだろう。だが、今ここに来て、もしかしたらダンスは停滞、もしくは退行しているのかもしれない。ダンスに於ける再びの「物語」への接近。これが何を意味するのか。それは他の芸術領域にも通底する一つの傾向を示すものであるし、いまこの時代に求められているものなのだろう。だが、「驚異」とはブルトンの定義によるまでもなく単純に未知の領域、隠されたものが現れてくる瞬間に不意をついて浮上してくるものであり、つまりは、強烈な物語の生成言語たるダンスが舞台上で現前させるメタモルフォーズそのものに他ならない。『毛皮のヴィーナス』で見られたアレクサンドラ・ジルベールの驚異的な肉体のアクションによって現前されたメタモルフォーズがそれであり、そこにシニックな笑いなど必要ないはずだ。シンタックスなど飛び越えて、メタモルフォーズそのものの方へ。容易に回収可能な意味を持つ物語ばかりが欲求されている現在において、これこそが未だにダンスに求められているものに他ならないだろう。

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『スリー・スペルズ』(ベルギー)
振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ、ダミアン・ジャレ
出演:ダミアン・ジャレ、アレクサンドラ・ジルベール
音楽:クリスチャン・フェネス
日程:2008年3月21日(金)- 3月23日(日)全5公演
http://tif.anj.or.jp/aleko/

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受信: 2008/05/07 13:03

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