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2007/12/18

<<書評>> 写真は私たちの記憶を記録できるか?

尾崎大輔『写真は私たちの記憶を記録できるのですか?』/『無』

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左:『写真は私たちの記憶を記録できるのですか?』/右:『無』(ともに発行:PLACE M/発売:月曜社 2007)



評=三橋 輝

 月曜社から先日二冊の写真集が刊行された。写真家尾崎大輔氏によるAMICIというロンドンのダンスカンパニーの人々を撮影した『写真は私たちの記憶を記録できるのですか?』と舞踏家工藤丈輝を被写体に据えた『無』がそれである。(…)

 作者の関心がダンスや舞踏の身体芸術、日常の延長上に在る非日常的な身体の在り方に向いているのは写真集を繙けばよくわかることである。だが、単に彼は「動き」をカメラによって記録することを目的としているわけではないようだ。おそらく、私たちが普段何気なく行っているコミュニケーションとはまた異なるコミュニケーションを模索している人々の姿を、そしてその試行そのものを記録しようとしている。例えば『写真は私たちの記憶を記録できるのですか?』の被写体であるAMICIというダンスカンパニーは、健常者と身体のどこかに障害がある人たちの双方によって構成された希有な存在であるし、また『無』での工藤丈輝氏は暗黒舞踏の教えを受けた、いわゆる「ダンス」とは定義し難い芸術に仕えている身である。工藤氏ただ一人が波打ち際という「境界線」の上で舞踏を行う姿からは、まさに肉体の、その存在の奥底を、私たちの前に投げ出さんとする試みが此岸と彼岸の間での往復運動を伴って切迫感と共に写真を見る私たちを揺さぶる。
 そしてまた『写真は私たちの記憶を記録出来るのですか?』もそのタイトルである「問い」によって私たちを動揺させる。写真からは被写体と撮影者の間に築かれた幸福な関係が読み取れる。とても美しい。だが、一見何気ないポートレイトに見える二枚の写真がその「問い」に応えている。
 赤いポロシャツを着た盲目の女性のバストショット。胸のあたりに「Link up with HE」と印字されている。一体誰と「つながる」のか? それは盲目の写真家——バフチャル——を巡る会話によって、ややピントがずれた短い黒髪のアジア系の男性のバストショットへと接続される。会話はさらにこの男性、尾崎大輔氏本人、が女性を撮影し、この盲目の女性が尾崎氏を撮影した張本人であることを明らかする。ここで、ある峻厳な事実が現れてしまう。それは尾崎氏の写真と彼女の写真がほとんど同じように見える、という事実だ。つまり、「見える彼」と「見えない彼女」が同じものを撮っているということに他ならない。自身の眼とカメラの二つの視覚によって「記録」させようとした「記憶」は「見えない」ものによっても「記録」出来るものであったのだ。
 「記憶」とは決して「眼」によってのみ支配されるものではない。そして、「見える」彼が「見えない」彼女の写真を撮り、「見えない」彼女が「見える」彼の写真を撮ったこの行為の瞬間の結果として現れるこの二葉の写真こそ写真(カメラ/撮影)という機械が可能にした新たなコミュニーケーションの誕生の「記録/記憶」に他ならないのではないのだろうか。

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