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2007/11/16

11月新刊書籍紹介①


『あるかなしかの町』

エマニュエル・ボーヴ著/昼間賢訳(白水社)

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1920年代、パリ郊外の町ベコン=レ=ブリュイエール。その少し変わった名で人々を笑わせる材料でもあった町を題材に、ボーヴは何気ない言葉を紡いでいく。そこは都会生活の荒々しさと、田舎暮らしの気安さの間で、特徴の少ない、あるかなしかの町である。通りには同じ大きさ形の窓が並び、丘の上にいるのに谷間にいるかのような錯覚を覚える家々を歩き……そして「孤独」の花言葉を持つブリュイエールの花は、その町の名を冠する花であるには、あまりにも少なすぎる……

 

 再開発の進む東京という都市に住んでいても、郊外は至る所に網の目のように存在する。パリに比べたら一回りも二回りも広い東京では、パリ市内を取り囲み、同心円上に拡がる郊外と違って、都市の中心部とはずれという概念はなく、郊外は内側に張り巡らされていると言っていいのかもしれない。 

 ボーヴの言う、「同じ福引の券を所有する人たち全員をつなぐきずなと同じくらい細いきずなのようなもの」で結ばれた郊外居住者たちの共同性という表現は、まさに言い得て妙である。例えば、都内の住宅街の小さなマンションの清掃員が、1平方メートルに満たない倉庫の中で、晩秋の突き抜けるような青い空を背にしてじっと壁を眺めてぼうっとしていようとも、彼らを背中から包む都市の騒音はない。全ての感覚器官に様々な刺激を与えてくれる都市の喧噪に抱かれず、ある種の虚栄心や高揚感で胸が一杯になることなどありえず、それゆえに密かに繋がっている。郊外に住む人々は皆多かれ少なかれ途方に暮れているからだ。心の空白や澄み通った空気の残酷さに耐え、あるいは耐えられずそこから去り、いずれにしろ町自体はその場所でじっとしている。

 一方で、例えばドン・デリーロの『コズモポリス』に描かれた現代のニューヨークのように、そびえ立つ高いビル群の造形にある種の空虚さを見てとる事も出来る。金、テクノロジー、カーセックス、痙攣的な速度、反復……大都市の空白は無限の死のノイズに覆われている。だがボーヴが、「空気は、この郊外で唯一の贅沢品だ」というように、本来の意味での空白、停滞と流れ、そういった要素によって特徴づけられる郊外の空気は……それらは一見すると死者たちの所有物のようであるが、実際はそうではない……その町に住むものたちの間に、秘めやかな共同性を与える。たとえ夏の暑い日に舗道の下水が溢れ、道ばたに動物の死体が転がっていても、しばらくの間は放置され、そしていつのまにか無くなっているだろう。そんな時人は、とうに止まっていたはずの時間が再び動き始めるのを感じ、そこに失われていたはずの町の意志を感じる。「命あるものと同じくらい儚い」郊外の町とは、そこに住む人々に、忘れられていた共同性をつかの間呼び戻し、そしてもう一度忘れさせるのだ。

評=影山裕樹

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