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2007/11/12

2007年ダンス季評/春夏

石井達朗 評

 以前のこのコラムを見たら、今年の3月で終わっている。T.S.エリオットの『荒地』の有名な冒頭「四月は残酷な月だ」ではないが、残酷な四月になって以来、すでに五ヶ月が経過し、今は早十月末。猛暑と騒がしいほどのセミの声もすっかり消え、チンチロリンという秋の虫の声も聞こえなくなり、窓を開ければ冷気がまとわりつく。

 そこで、この2007年の春夏のダンスの舞台で、すでに新聞や雑誌に書いたものを含めて思い返してみる。季評ということになるが、それが春と夏と二つ重なってしまったのは私の怠惰のせいである。もうひとつ口実を加えるなら、どうも拙文をインターネットに配信するということが億劫になってしまうということがある。

今年の4月・5月ほど、注目すべきダンス公演が多かった年も少ないのではないか。ニード・カンパニー、ローザス、コンドルズ、Noism、アラン・プラテル・バレエ団、H・アール・カオス、大駱駝艦の壷中天・・・などの公演がひしめいていた。このうちいくつかの舞台については、すでに書いたし、他の評者からの様々な評が出ている。この中でもっとも強烈な印象を残したのは、アラン・プラテルの作品『vsprs』だ。

 白い下着が山となって積み重ねられている光景は、遠目には氷山のように見えて無機質であったが、舞台の近くで見ると人々の肌のぬくもりが折り重なっているような錯覚を覚える。痙攣、小刻みの震えなどを多用したダンサーの動きは、機能不全そのものだ。ただし、これは「病的」としてとかくネガティヴに捉えられがちな痙攣ではない。逆に、プラテルはこの身体の極北に、ある種のアウラを見ているような気がした。

 私はバリ島や南インドのケーララ州、カルナータカ州にフィールドワークに出かけたとき、トランス状態から来るこのような痙攣や震えに何度も出会っている。あらかじめそういう役割を担っている人に起こるばかりでなく、ごく普通の村人に起こる場合もある。それらは呪縛されるというよりも、むしろ制度的な日常から心身が逸脱する瞬間なである。「近代化」というのはこのような装置をことごとく排除し、効率性と即物的な快感に向うように心身を構築してきた。これらの村々ではトランス状態から覚めたあと、人々の一皮むけたような、漂白されたような顔がとてもいいのだが、プラテルの舞踊団のダンサーたちも、公演後にそんな顔になっているのだとうかと想像してみる。

 4月・5月の公演でもう一つ。大駱駝艦の壷中天は、これからも注目だ。舞踏の群舞を振付けることは、(いや、舞踏に限らず、ダンスのあらゆるジャンルで「群舞」を構成し振付けることは)容易いことではない。とくに海外の舞踏家の、思い込み過多のソロやデュオを見てきた。そんなかで、麿が群舞のスペクタクルにこだわって弟子たちを指導し、それが確実に実を結んでいる。12月には大駱駝艦の35周年記念で、2作品が連続上演されるが(世田谷パブリックシアター)、海外の人にも是非見てもらいたいものだ。

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