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2007/10/21

ナナのようなミミ、いずれ悲しき老いの欲情

室伏鴻×黒田育世 ミミ

2007年9月15日(土)赤坂レッドシアター

Mimi

評=榎本了壱

ゾラの『ナナ』のような、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』のような、
そんな小説を思い出させた室伏鴻と黒田育世の『ミミ』。
Experimental Body シリーズといいながら、男女のデュオは
どうしてこう、男と女の関係を読み解く作品に見えてしまうのか。
ダンスがフィジカルな表現だけに、それがいっそう生々しく、
露骨に見えてしまうので、実験的身体など凌駕してしまうのだ。

 舞台には、下手奥に壊れかけた一人掛けのベージュのソファが、死にかけた老猫のようにうずくまっている。それと対峙するように上手ツラに、簡易なレコードプレーヤーが、マイクを突き立てられてある。この二つはすでに、これから始まる男女の、いや雌雄の暗喩としてのオブジェとしてある。勿論ゆるぎなく存在するソファがメスで、音を発せなければ用もないプレーヤーがオスである。
 ダンスは、黒田の思い切りのいい放射力のあるエネルギッシュな動きに、室伏の思考が内向していき、身体の中心部が固形化してぶっ倒れてしまう、そんな対比的な動きで進行していく。黒田は現実的でエロティック、室伏は観念的でフィロソフィック。あんまり対照的にとらえるのもなんだけど、マア、そうした異質の立ち居地で進行せざるを得ない事情というのもある。
 室伏鴻はいわば生粋の舞踏家であるし、黒田育世はバレエ、モダンダンス、コンテンポラリー、そして伊藤キムの「輝く未来」を経て自身のカンパニー「BATIK」にいたる、ダンス遊民のような自在さ自由さがある。この二人が舞台に立った瞬間から、固体と液体くらいの差異から始めなければならない。「ミミは水の女だ」というチラシのコピー、あるいは「水を精一杯含んだミミの身体」というコメントは、黒田に対する室伏の実感だったのかもしれない。
 この作品を最初にオファーしたのは黒田のほうだったという。いわば成熟した舞踏家としての室伏の胸を借りるかたちでのデュオということになるが、舞台は室伏が黒田を支配する形で進んでいく。「カモン!」室伏のかすれた声の指示の黒田は従っていくのだが、それがどんどん黒田主導の展開に変容し、室伏はますますフィロソフィックにロジカルになり、一本の直立した骨、あるいは無闇に屹立するだけのペニスとなって昏倒を繰り返す。
 ダンサーとしての室伏の老醜というのではなく、あまりに精神も肉体もはしゃいで限りなく遠心力を振りまく黒田の前で、内向自閉していくしかない室伏。最後に生成りの麻のスーツに着替えて舞台ツラに出てきてぶったっている室伏のズボンの裾が、わずかな痙攣にゆれているのが見えた。ああ、これが肉体か!これがダンスか!身体性の反応は隠しようもなく現れてくる。

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