« カウパレード2006遂に開幕! | トップページ | 新しく誕生した手塚キャラクター “tezuka moderno”! »

2006/09/11

神村恵と種子田郷による『うろ』

評=石井達朗

   日本のコンテンポラリーダンスに小さな風穴を開けて欲しい。
         
種子田郷(音楽家)×神村恵(ダンサー)


8月に、印象的な舞台が二つあった。ひとつは神村恵のダンスと種子田郷のサウンドによる『うろ』(8月14日、麻布die pratze),もうひとつは大橋可也振付けの『明晰さは目の前の一点に過ぎない』(8月27日、吉祥寺シアター)。

神村は大橋作品にも一ダンサーとして出演している。『うろ』は、神楽坂と麻布のdie pratzeで毎夏開催されている「批評家推薦シリーズ」の一環であり、実を言えばこれは私の推薦である(去年の同じシリーズで私が推薦したのが大橋可也だった)。
というわけで、神村の『うろ』については、あれこれ述べる資格がないのかもしれないが、以下は推薦人兼観客としての感想である。

今年も「批評家推薦シリーズ」に誰かを推薦して欲しいと言われたとき、すぐに思いついたアーティストは、ダンサーではなく、ライブにこだわってコンピュータで音づくりをする作曲家の種子田郷である。
今まで森山開次、能美健志、東野祥子ら作品で仕事をしている。しっかりとしたコンセプトと感性をもち、決して踊り手に妥協しない。踊り手に対しても要求が厳しい。そこで、種子田の音で踊れるダンサーは・・・と考えを巡らせのだが、最初はなかなか思い浮かばなかった。
神村を選んだのは、彼女なら種子田のサウンドに拮抗するような形で身体のプレゼンスを維持できるのではないかと想像できたからだ。たった一回限りの公演だったが、そんな私の期待に充分に応えてくれた。踊る所作はまったくなく、例えば片脚の上げ下げを繰り返して、それを止めると空間を移動し、次には再び違った種類の意味のない動きを繰り返す。種子田のサウンドが起伏のある流れを展開し、神村はほとんどサウンドから距離を置くよう動き、あるいは立ち尽くしている。音と動きをどんなふうに整合性のあるものとしてリンクしてゆくのか、ゆかないのか・・・は、観客自身の領分である。問題はそれだけのテンションを終始持続するだけの強度を、パフォーマンスがもっているかどうかということになる。
一見ぎこちなさそうだが、容易くは動じない神村の身体の佇まいが、1時間弱もの長きにわたり(このスタイルの公演としては短い時間ではない)、硬質なテンションを持続したことをまず評価したい。それには、表通りの騒音を拾いあげたり、虫の鳴くような微細な電子音から観客の体を震わせるほどの重低音をコントロールし、サウンドの緩やかなメタモロフォセスを、神村の身体に浴びせ続けた種子田仕事が貢献していることはいうまでもない。神村には課題もある。ひとつの動きの塊から次の塊にゆくときに、流れが途切れてしまうということが起こる。それを作品の構成要素として戦略的にやっていて、それが生きているのならいいが、そんなふうには見えない。しかし初めての本格的なソロ公演で、よくここまで個性を見せてやり遂げたもの。種子田は終演後、「神村との出逢いは未だに経験したことのないダンサーとの出逢いだった。是非また一緒にやってみたい」と語った。私も二人の共演を再度実現させて、日本のコンテンポラリーダンスに小さな風穴を開けて欲しいと思っている。

|

« カウパレード2006遂に開幕! | トップページ | 新しく誕生した手塚キャラクター “tezuka moderno”! »

コメント

まったく同感です
大橋さんの舞台についての評も読みたいです
ちなみに僕の寸評は以下です
http://d.hatena.ne.jp/butoh-art/20060829

投稿: shinobu | 2006/09/26 12:48

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/174560/11857360

この記事へのトラックバック一覧です: 神村恵と種子田郷による『うろ』:

« カウパレード2006遂に開幕! | トップページ | 新しく誕生した手塚キャラクター “tezuka moderno”! »