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2006/04/27

『古川麻美 「Ω」について』

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高井君貴 評

きれいと、汚い。

善と悪。

優しさと裏切り。

光と闇。

たとえば、そんな二項対立を、この作品は絶えず無効化しようとつとめる。

ダンボールの箱にそっと置かれたドライフラワーのバラの上に、おもむろに零れ落ちる黄砂は、バラの色彩を奪い、さらさらと移動し隙間を覆う砂の流動性で、花は輪郭を失う。

女が用意したギフトの箱は、幾十にも重ねられ、その中に敷き詰められた砂の中から現れる木馬が二つ。ここで視線は箱の中へ移動し、内側と外側の意識の境界は曖昧になり、木馬の出現が、あたかも女がしつらえた箱の中で起こっている幻だとは、しだいにだれも気づかなくなる。

対称的な位置で同じ動きをしていた二つの木馬は、黄砂に足を掬われているためであるかのようにその動きをすれ違い始める。

木馬に乗った女から落下した(たたきつけられた)虫は、虫であるかと思えば、女でもあり、美しい羽を羽ばたかせんとする蝶にも変化する。その多義的な生命はしかしあえなく踏みつけられ、生命からグロテスクな贓物に変貌する。

このように、この作品は、美と醜、内と外、生命と非生命、流動的なものと固形なもの、それらの間を行き来するイメージで、溢れている。

そして、そんなイメージの操作を支えているものが、コマ撮りという手法だ。運動と静止を繰り返すイメージの連続は、絶えず二項対立を往来するイメージ群を方向付ける骨組みとなっている。

しかし、あえて言えば、このようなコマ撮りによる描き方自体は、すでに古くさいものに見える。最近では、チェコのヤン・シュヴァンクマイエルの個展も日本で開催され、このような作品の系譜も一般化しつつあるからだ。それらの影響の元にこの作品もあることは明らかだが、そのような新しさ/古さといった二項対立も、この作品のなかでは、黄砂の流れにさらわれて、無効化されてしまうように思える。きれいはきたない。きたないは、きれい。

参考WEBサイト…京都造形芸術大学2005年卒業制作

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