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2006/04/18

コンドルズ 2006春の東京公演「勝利への脱出」

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新井 幾美子 評

「ヤツらは真剣だ!―踊り続けること/自分であり続けることへの真摯な「選手宣誓」―」

はじめに言っておきたいのだが、そう、間違いなく確かにコンドルズは「ダンス・カンパンニー」なのだが、ダンス公演と思って観ない方がいい(かも知れない)。
その舞台はコントあり映像あり人形劇あり、もちろんダンスも(も、という所がポイントである)あり、幾つもの短い断片が、脈絡があったりなかったり、次々と間髪入れず繰り出される。

高校の文化祭的「ちっちゃさ」が身上だが、それが無性に懐かしくもあり、楽しくもあり、まるで星新一のショート・ショートの傑作小説『ボッコちゃん』のように一つ一つの作品が濃密で、いくら読んでも次、また次と夢中で読み進んだように、彼らの舞台も次、また次といくらでも観ていたくなる。観ているうちにお金を払って観に行っていることを忘れて、文化祭のステージに上がる我が校内の人気者たちを見守っているかのような、そんな身内的吸引力がある。バカバカしいのに、つい笑ってしまうのだ。
そして本領のダンスはといえば、彼らは主宰である近藤良平とあと数名を除いては、はっきり言ってしまえばダンスが下手である。
しかしその下手を逆手にとって、実に生き生きとした、全力で生きるからだを見せてくれる。(彼らは実は単に「下手」というのではなく、近藤の振付を最大限に活かす身体なのだがそれはまた別の機会に)。ダンサーらしくない、日常そのままの身体が踊ることで、観る者を「自分も踊れるんじゃないか?」という気にもさせてしまう。事実各地で行われる彼らのワークショップはどこも盛況のようだ。
窮屈な学ランから手足を目いっぱい遠くへ伸ばして、全身全力でダンスする。その振付はというと、使用される音楽のロックン・ロールの細かいビートの刻みよりも意外に大まかで、そのためフワリと大胆に音楽に乗っかって、まるでロックン・ロールをサーフィンしているかのような爽快感がある(ロックンロール・サーフィンと名付けよう)。そして汗だくでバカバカしいコントに取り組むのだ。
ただ「全力」なのは暑苦しいが、合間合間に「おバカ」や「シュール」が入ることで、「一生懸命」の美しさが活きる。日常の踊れない身体が踊るからこそ、リアリティーを感じさせ、「精一杯」感はより強調される。我々世代ではもの心ついた頃から空虚に形骸化していた「一生懸命」なる価値観の復権だ。単なる「おバカ」や「シュール」だけの表現ならばわりと世の中に溢れている。だが、それだけでいいのか、本当にこのままで―?
シュールなだけでは物足りない。やっぱり全力出して生きたいよね、せっかく生まれてきたんだし!そういう今の時代の空気ともちょうど合致したのだろう。観る側もふしぎと全力で前向きに素直に生きていこうなんていう気にさせられてしまう。そんな風に受け手側に強烈に働きかけてくる作品は、ダンス以外でもそう多くはない。その点からも、注目されている一(いち)ダンスカンパニーというよりも、コンドルズ、とくに近藤良平は今見ておくべき第一級の表現者である。
後手に回ってしまったが、近藤良平のダンスは一見の価値ありだ。その動きの音楽性の豊かさ、野生的勘の良さ、舞台上で視覚的に強烈な引力を放っている。単に「踊れる度」で言えば、プロのバレエダンサーたちにはとうてい敵わないのだが、何やら奇妙で独特な動きが挿入されるのだ。それはいわゆる「日常的」仕草と表現されるものなのかも知れないが、ツンツクと突き出す手先であったり、ヒョイと残る後ろ足の蹴りであったり、ユニークで表情豊かな付け足しが入り、観るものの「!?」という関心を惹きつけるのだ。
ダンスでなければじゃあどう捉えればいいか。ジャンルに括ることにそう意味があるとも思えないのだが、縦横無尽(やりたい放題?)な劇場の使用ぶりから「総合舞台芸術」の線も捨て切れないだろう。ただ語感から来るそういうなんとなくあやふやな青白さは彼らとは無縁なので、強いて言えばロックン・ロールのライブ感に近いかも知れない。今回は約15前後程の小品の断片で構成されているが、15曲の演奏がされたライブだったという捉え方が今のところいちばんしっくりくるようだ。

                         

さて本題、本公演についてだが、5月には埼玉公演「勝利への脱出SHUFFLE」が予定されているため詳細には触れないが、いつも通りの「おバカ」が随所に散りばめられた中にも、静けさ、特にダンスシーンのストイックさ、シリアスさが印象的であった。普段の勢いのいいダンスも勿論あったのだが、コンドルズが今まで正面切って見せたことのない、彼らのダンスへの真剣な姿勢が浮き彫りにされた。
今年のサッカーワールドカップ開催にちなんで、構成も前半戦45分、後半戦45分、ハーフタイム15分というサッカー仕様だったが、形式だけでなく、サッカーそのものが近藤のダンスのルーツであったことも明かされる。
サッカーでは、自分の出したボールを無条件に相手が受け止め、蹴り返してくれる。ひとつの同じゴールに向かって走る「仲間」が、手を伸ばせば届くすぐ隣にいる。コンドルズも、ダンスという勝ち負けのない試合で、ひとつのゴールに向かって走る「仲間」が手を伸ばせばすぐ隣に居る。仲間と繋がることの手段がサッカーであり、ダンスであるのではないか。
そして近藤の「仲間」というのはおそらくコンドルズのメンバー内にとどまらない。舞台を観る観客をも引き込み、更にもっとずっと先へと拡がる方へと志向しているようなのだ。だからこそ彼らはコンテンポラリー・ダンスの範囲をさらりと越えて、多くの人々の心を捉えているのだろう。

ところでダンスが他者とのつながりの手段になっていることは実は特筆すべきことだ。
内省的に自己を徹底的に掘り下げていくダンスが氾濫する中で、笑っちゃうほど彼らは外向きだ。舞台上でもダンサー同士の絡み(リフト、抱き合うなど)が多用されるが、互いが対等な立場で、「君がいて、僕がいて、友達ね。」というごく当たり前のことをごく当たり前に展開する。この当たり前さが今の世の中ではかけがえのない貴重な事なのだ。
自己と他者との相克などどこ吹く風、「自己受容―他者信頼―他者貢献」(アドラー心理学)/「私はOKである。他人もOKである。」(交流分析Transactional analysis)というまことに健全で涙が出るほどうるわしい、「肯定」の世界が、ここにはあっさり実現している。私は冗談を言っているのではない。
彼我の相克で汲汲とした今日的世界の中では、彼らの舞台での「仲間」観は一種のユートピア的世界であり、肥大した自意識に振り回され疲弊した現代人のある種癒しともなっている。しかもそれは到達不能な理想郷ではなく、おそらく日本でも50年ほど前ならどこにでも有り触れていた世界であり、現在でもそれが実現している人にとっては何でもないことであり、誰でもその気になれば今日からでも始められる、実現可能な理想世界である。

話を戻そう。
彼らは「学ランのおじさんたちの青春ごっこ」と揶揄されることもしばしばである(事実おじさんなのだが)。三十代後半(中には四十代)、失われゆく若さを否応なく自覚させらる年代であろうが、それをコントにし、笑いにし、もちろん若さへの執着の裏には「老いへの不安」が確実にある訳だが、彼らの踊りを通して伝わってくるのは、言葉にするとちょっと恥づかしいが、ずっと走り続ける、夢を追い続けるという覚悟だ。これまでもそうであったし、これからも変わらない。たとえこの肉体は滅びゆくとも。
「一生踊り続ける。」
言葉にするのは簡単だ。だがその実体は、一日24時間、365日からなる一瞬一刻の密なるからだと心の使わせ方、働かせ方である。
先のことは分からない。ただ今言えるのは、踊りは稚拙であっても彼らのからだから発せられる、いまこの瞬間の充実であり、密度であり、滅び行く肉体とともに踊り続けよう、前進し続けようという、眩しいほどの潔い決意である。
いや、決意というよりむしろ、密なる〈現在〉からそのまま自然に未来が見通されるといったような、眼前にある近藤の、彼らのからだの充溢(じゅういつ)である。
肉体は確実に日々衰える。いつか必ず消えて無くなる日が来る。そのときまで闘い続ける、踊り続ける。滅び行くからだとともに。そういう未来が見透かされて来るようなからだである。近藤はいま37才、ダンサーとして身体機能から言えば決してもう若くはない。でも37才のいまを、完璧は追い求めないが、日々を精一杯、自分らしく出し切ろうと努めるからだである。

この2006年春の東京公演「勝利への脱出」は、彼らコンドルズのそうした踊ることへの、真摯な言わば「選手宣誓」でもあった。

よし、還暦過ぎの「学ランハッチャキ全力ダンス」を、二十年、三十年後にも見せてもらおうじゃあないか。

彼らのことを、いつまでも「永遠なる男の友情幻想」、「古き佳き青春の仲良しゴッコ」にぬくぬくと浸かっている、「大人になれない大人たち」と見る向きもあろう。だがそうではなく、紛れもなく現在を生き、生き続ける「現在進行形」のダンス=からだであることを今回の公演ではきっぱりと示してくれた。今後二十年、三十年と変わらず踊り続けることで、その青春が幻想でないことはおのずと完全に証明されよう。そうして年々歳々積み重ねられたからだには、若さとは別の美しさが顕れるはずだ。
そうそう、いいお手本がいるではないか。ちょうど先月末(20063月)から、この公演が始まる二日前まで、三年振りの来日公演を果たし、日本のロックファンを沸かせたヤツ等が。デビューから四十三年、還暦を過ぎても変わらず走り続ける、奇跡の「永遠の悪ガキたち」が。

                     

*   *

ところで、勝ち負けのないダンスという試合の中で、彼らのゴール―目指す「地点」はいったい何処なのだろう。
私が言っているのはたとえば「ブロードウェイ進出!(を狙っているかどうかは知らないが)」とか、そういう形の野心のことではない。
それが何処なのか、見届けたい。

そういえば、私に行き先を見届けたいと最初に思わせてくれたのは、ロックン・ロールだったっけ。

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